三重県|感動!便利さよりも日々の安心
アーユーボーワン!こんにちは、ベルです。
台風10号が上陸しています。先週末から日ごろの備えを見直し、停電による暑さ対策のために冷凍庫の中を空けるべく、冷凍食材の消化に務め、ペットボトル氷の数を増やしました。被害がありませんようにと祈るばかりです。今日は先人による津波対策を500年以上も守っている三重県鳥羽市国崎町の訪問ブログです。
〜国内最古の高台移転地へ〜
お盆休みを利用して三重県鳥羽市にある自然災害伝承碑に会いに行ってきました。その自然災害伝承碑は海を見下ろす高台のお寺にありました。じつはこの地域は国内最古といわれる高台移転の地なのです。
フェンスの向こう側にずっーっと見える青い部分は太平洋です。遥か遠くまで見渡せました。
お寺は、曹洞宗 宝剣山 常福寺です。自然災害伝承碑「津波流失塔」についても紹介されているWEBサイトがあります。こちら
念願かなっての三重県鳥羽市国崎町
三重県鳥羽市国崎町にはずっと行ってみたい!と思っていました。自然災害伝承碑探訪の遠征計画中に500年以上も前の先人が決断した高台移転地での暮らしをずっと守っていると知ったからです。
そして、そのエピソードに長崎の隠れキリシタンの奇跡「信徒発見」を思い出し、その倍以上も先人の思いを守っていることに驚愕し、どんなところなんだろう、どうしてそんなにも長い間守りつづけていられるんだろう、、、さまざまに想像をめぐらせていました。
今回、念願かなっての三重県鳥羽市国崎町への探訪でした。
本当に漁港に家がない
自然災害伝承碑は高潮や津波を伝えるものも多く、これまでにも海の近くを探訪することは何度となくありました。漁港付近は目の前に住宅があることが多いのですが、こちらでは建物が数軒あるのみでした。
事前の調査で参考にした論文に書いてあった通りでした。
国崎の集落を海岸に下り,海岸道路を西に進むと小さな川にかかった「大津橋」に出る。この川にそっては西に向かう小平野が開けている。この小平野が大津の故地である。地図で分かるように現在もこの小平野にはわずか一、二軒の家屋が点在するのみである。
都司嘉宣,東京大学地震研究所,志摩国国崎(鳥羽市)の津波被災の歴史,歴史地震,第15号(1999),65-71頁,PDFへのリンク
写真で見るとわかりにくいのですが、写真右手に集中している住宅がある場所は高台になっています。津波避難場所になっている付近は標高が約26mもあります。
移転前と移転後の標高はどれくらい?
いま現在の地へ高台移転することになったのは、1498年の明応津波によって被災をしたことです。移転前に集落があった場所と、移転後の場所にはどれくらい標高差があるのかを確認してみました。
国土地理院地図のツールを使って断面図を確認すると、移転前地の標高は約7.00mでした。移転した常福寺の現在地の標高を確認してみると、、、約18.00mありました。
18.00mもあれば十分なのでは?とも思ったのですが、現地を訪問してみると、常福寺の入り口には津波避難所はまだ上であることを示す案内表示がありました。
津波避難場所は広い場所が確保されていて防災倉庫もありました。その場所の標高も確認してみると、なんと!約26.00mもありました。
実際に現地へ行ってみると、道は細く、軽トラックや軽乗用車でないと不慣れな人は運転が怖いと感じると思います。ベルも運転に自信がないのでお寺の参拝者用の駐車場に停めて歩きました。↓道の細さと急な坂道の様子は動画でご覧ください。(息が切れてるので音声なしです)
焼失してもなお
参考資料によると国崎の集落は高台移転後、1703年に火災を経験しています。村中が焼失してしまってもなお、この地に住み続けていることがわかります。
狭隘地の密集居住であるためひとたび火災を生じると類焼しやすく,しかも川から遠く消火の水が得にくい。国崎のような集落は火災の危険が大きいことは容易に推測しうる。
しかしながら,このような大火災にあってさえ,国崎の住民は居住地を平野部に移転することを考えなかった。
それだけ,津波に対する心構えが,火災よりもきびしく感じられたことになろう。
都司嘉宣,東京大学地震研究所,志摩国国崎(鳥羽市)の津波被災の歴史,歴史地震,第15号(1999),65-71頁 PDFへのリンク
実際に現地へ行ってみて、急な坂道や道の狭さ、住宅が密集していることがわかりました。この地に住み続けたには、火災よりも津波に対する恐れのほうが大きかったであろうとの推測には深く納得しました。
そして、この住民の方々の判断は間違いではなかったのです。
江戸時代の二大津波を経験
火災によって村中が焼失しても住み続けた国崎は、その後、江戸時代の二大津波を経験しています。今回の探訪で会ってきた自然災害伝承碑「津波流失塔」は、1854年12月23日の安政東海地震による津波での様子を伝承しています。
ここでこれまでの時系列を整理してみます。
津波で壊滅状態に。生き残った人々は国崎(現地)へ、お寺と共に高台移転
火災により村中残らず焼失も、平野移転せず
国崎では、漁具と漁船、および田畑の被害のみ、家屋、人身の被害なし
近隣集落は被害あり(阿児町国府:潰家5~60軒,紀伊長島:溺死者500余人など)
国崎は「津波の特異点」となり,潮の高さは「彦間にて7丈5尺」(22.7m)も
その被害は「家四軒,宮二軒」にとどまり,溺死者六名にとどまった
宝永地震も、安政東海地震も、いわゆる南海トラフによる地震です。宝永地震は南海トラフのほぼ全域での断層破壊が生じたとされる巨大地震です。この地震の49日後に富士山が噴火したこともよく知られています。安政東海地震は、発生の約32時間後に同様の安政南海地震が発生したことでも有名な巨大地震です。
このような巨大地震を二度も経験し、一度は家屋も人的も被害なく、二度目は最小の被害にとどめることができたには、数百年の時を経ても、先人の津波への教訓を守り通したことがもたらしたことは明白です。
移転について思うこと
今回訪問した三重県鳥羽市国崎町の高台移転の事例は「国内最古」と言われているように、ほかにも移転の例はたくさんあります。国崎町のような近くで安全な場所への移転もありますが、約135年前の水害により、はるか遠く北海道へと村民2,600人が移住した奈良県十津川村の実例も有名な災害伝承のひとつです。こちらも奈良県の現地を探訪しブログにしていますので、ぜひご覧ください。
移転というと町や地域全体でのイメージがあるかと思いますが、そのほかにも住んでいた場所から離れて別の場所で暮らすことを選択する方もたくさんいらっしゃいます。ベルもその一人です。
阪神・淡路大震災後、熊本へ移住し、まさか二度目の地震被災を経験するとは夢にも思っていませんでしたが、熊本地震以降は多拠点暮らしをしています。
ベルの場合は、熊本・阿蘇が大好きなことと、二度の経験により、住む場所は日本!くらいの感覚になったことと、防災の観点からも拠点があれば避難や被災後のダメージも少なくできると考えたからです。(ただ、そのために仕事がオンラインで完結できるものへ変えました)
そうはいっても、何かどこかで自分の居場所がないような、、、故郷がないような、、、なんだかちょっと、そういうことを考え出すと、センチメンタルモードになってしまうこともあります。なので、住んでいたところから離れたくない、と願う方々の気持ちも痛いほどよくわかります。
だから、、、移転についての良し悪しについては、いろんな立場や事情があり、さまざまな考え方があると思いますが、個人の気持ちを最大限に可能な限り尊重することができればいいなと思っています。
自然災害は突然に容赦なくやってきます。ベル家族も地震のわずか数十秒でそれまでの暮らしが一変しました。でも、どこのだれのせいでもないんです。やり場のない気持ちを抱えて、生きていくことや、人生を再構築していくことは、とってもしんどいです。
被災地のみなさんがそういう消えない傷みと痛みを抱えたまま、色んなことに向き合っていることをどうか知っていていただけたらと思います。
実は・・なかなか見つからなかった「津波流失塔」
さて、最後に。。。
じつは、またもや「自然災害伝承碑バイアス」にとっつかまりまして💧なかなか見つけることができませんでした。今回は国土地理院地図に掲載されている写真が頭にインプットされていて、それがバイアスになってしまっていました…なんてこったい!
でも、でもでも、でも、(しつこい、、)この画像を見ていただければ、かつ、頭にインプットして思い込んでいたならば、そりゃぁ見つからんわな〜と共感していただけるのではないかとっ。
ご覧ください、、、
えっ、これはわかるやん!と思ったアナタ。。。いやいや、ではこちらもご覧くださいませ。
この状況です・・・。もう目先のフェンス前の墓石に目が取られ、頭の中にインプットされた画像には紫陽花はなかったんですよね・・・・・。
見事にとっつかまりました!汗&泣
教訓がひとつ生まれましたので残しておきます!
自然災害伝承碑めぐり教訓
災害伝承ラボ ベル
国土地理院地図の写真から「季節」も読み取れ!
おまけ
三重県鳥羽市国崎町はもちろん、周辺は観光におすすめの地域です!特にベルのお気に入りは朝夕のマジックアワーです。今回の遠征でお世話になった宿では部屋から絶景を見ることができました。
台風10号がまだウロウロしています。
どうかみなさま安全第一でお過ごしください。
ベルでした!