愛知県|住民の総意によって建立
アーユーボーワン!すべての命に。こんにちは、ベルです!
今日は一段と冷え込み、ぬくぬく布団がついに魔物と化してきたか・・・と身震いしつつ、ええい、いかん!いかん!朝散歩ガールズ(近所のおばあちゃんたち)に心配かけるではないかっ!と奮い起きました。みなさまはいかがでしたか?
さて、今日は愛知県にある自然災害伝承碑を紹介します。自然災害伝承碑探訪をしていて初めて胸が苦しく、涙がぼろぼろと溢れる経験をした伝承碑です。ベルは全く知らず、想像に至れていなかった事実を知ったからでした。
1945年1月13日発生 三河地震 〜安城市藤井町〜
こちらの自然災害伝承碑は1977年に建立されたものです。まず最初に碑文をぜひ読んでいただけたらと思います。写真をそのまま掲載します。
昭和二十年一月十三日未明、突如として起こった三河地震は、藤井住民の尊い生命財産を奪った。この大惨事は、藤井住民の瞼に痛恨として、今もなお、強く灼きついている。
当時藤井は百十七戸であったが、数度の上下動と共に、一瞬にして殆どの家屋が倒壊し、住民はその下敷きとなった。
暗闇の中で互いに安否を確かめ合いながら、屋根裏を素手で打ち破り、戸外へ這い出すことができたものの引き続く轟音や閃光。つぎつぎに襲い来る余震に脅かされながら、住民は一丸となって死傷者の救出や手当に奔走した。
こうした血まみれの努力に拘らず、絶命する者が続出し、まさに、この世の地獄そのものであった。
しかも敗色濃き戦火の末期にて、三河地震の惨状は公表されず、住民は物心両面にわたって、筆舌に尽くしがたい残苦を嘗めた。
爾来三十有余年、住民の自力によって復興をみた今日、往時の惨状を偲び、帰らざる災没者の冥福を祈ると共に、この実状を永く後世へ伝えるため、ここに藤井町住民の総意により、この石碑を建立する。
昭和五十二年十一月 安城市藤井町
心の思いは現れています。
こちらの石碑がとても大切にされていることは現地で一目瞭然にわかります。お寺の敷地へ入る入り口すぐ、県道294号沿いに建立されています。石碑のための場所があり石碑の周囲は坪庭のようになっていて灯籠や庭石がほどこされていました。きれいに掃除されゴミひとつありませんでした。
人の心は目では見えませんが、心の思いは現れています。どちらの自然災害伝承碑にうかがっても地域の方々(知っている人だけかであっても)が大切にされていることがわかります。こちらもそうでした。
自然災害伝承碑マップ/国土地理院地図GSIマップより/アクセス日:2024.11.28
碑名 三河地震追憶之碑 災害名 三河地震
(1945年1月13日)災害種別 地震 建立年 1977 所在地 愛知県安城市藤井町 伝承内容 昭和20年(1945)1月13日未明、突如として起こった三河地震は藤井住民の尊い生命財産を奪い、住宅全半壊176棟、死者77名を出した。
碑文には「次々に襲い来る余震に脅かされながら、住民は一丸となって死傷者の救出や手当てに奔走した。こうした血まみれの努力にもかかわらず、絶命する者が続出し、まさにこの世の生地獄そのものであった。」とある。
三河地震を伝える自然災害伝承碑
近隣にも同じ三河地震に関する自然災害伝承碑があります。そのうち2つを紹介します。地図の赤い丸印が先に紹介しました「三河地震追憶之碑」です。青い丸2つをご紹介します。
自然災害伝承碑マップ/国土地理院地図GSIマップより/アクセス日:2024.11.28
戦争中に大地震が襲う
左側の写真が地図では青丸の上側に位置する安城市和泉町にある共同墓地内です。下記の概要にあるように碑文の伝承内容には「太平洋戦争の最中で空爆により火葬が出来ず、この地に犠牲者の遺体を埋葬した」とあります。
戦争中に大地震が襲う…戦争を知らない私は、この伝承碑にあうまで全く想像ができなかったことでした。一緒に来てくれていた家族に説明しようにも胸が詰まって言葉がでなかったです。
涙がぼろぼろと出てきて「なんでそんなときに」と自然は自然を生きている、こちらの都合など関係なくやってくることを改めて実感しました。
こちらも真新しいお花が供えられていて、大切にされていることがよくわかりました。
自然災害伝承碑マップ/国土地理院地図GSIマップより/アクセス日:2024.11.28
碑名 震災死歿者精霊碑 災害名 三河地震
(1945年1月13日)災害種別 地震 建立年 1957 所在地 愛知県安城市和泉町向共同墓地 伝承内容 昭和20年(1945)1月13日未明、三河地方の大激震により一瞬にして和泉区内400余戸の内、倒壊家屋300余戸に達し、死者83名を出した。太平洋戦争の最中で空爆のため火葬することが出来ず、この地に犠牲者の遺体を埋葬した。 制限事項
今日迄生を長えた事に関し深く感謝
写真右側は地図青丸の下側に位置します。安城市城ケ入稲葉の共同墓地です。こちらの伝承碑も石碑のまわりに立派な庭石や樹木が植えられ、きれいに掃除がなされていました。
目視では碑文が読みづらく、国土地理院地図の概要で「遭難者の尊い犠牲に依り今日迄生を長えた事に関し深く感謝して遭難者の霊を慰める可く」とあるのを読みました。
現地を拝見し「深く感謝して、霊を慰めるべく」の思いが、石碑建立から65年を経ても続いていることがよくわかりました。(訪問日:2022年9月11日)
自然災害伝承碑マップ/国土地理院地図GSIマップより/アクセス日:2024.11.28
碑名 震災遭難之碑 災害名 三河地震
(1945年1月13日)災害種別 地震 建立年 1958 所在地 愛知県安城市城ケ入稲葉共同墓地 伝承内容 昭和20年(1945)1月13日未明、大地震が起り山新田組60数余戸の家屋は殆んど倒壊して26名の尊い遭難者を出した。碑文には「遭難者の尊い犠牲に依り今日迄生を長えた事に関し深く感謝して遭難者の霊を慰める可く」とある。 制限事項
三河地震について
三河地震は1945年1月13日に発生しています、その約1ヶ月前の1944年12月7日には東南海地震が発生しており、東南海地震で受けた被害を三河地震で拡大させた地域や、集団疎開していた児童が寺院の下敷きとなり犠牲になるなど、相次いだ地震により大きな被害をうけています。
探訪後、戦争中との関連が気になり調べたときの情報をシェアします。お時間がゆるされますときにでも、ぜひ、ご覧ください。(2つめと3つめは短い時間で読めると思います)
・内閣府防災情報「災害教訓の継承に関する専門調査会 1944 東南海地震、1945 三河地震」
・内閣府防災情報「第6章 戦時下での地震」
・日本戦略研究フォーラム「日本に止めを刺した大地震〜隠された昭和東南海地震〜」
さいごに
1944年、1945年といえば、今から79〜80年前です。このような数字であらわされることは目安となっていいと思う一方、自分都合の目安となってしまう恐ろしさも感じます。
熊本地震のあと、「これでもう少なくとも100年は地震は来ないね」と言っていた方がいました。なぜですか?とお尋ねすると「こんなことが頻繁にあったら困るよ」と。
確かにそうなんですが、熊本とか、東日本とか、能登とか、地震被害が発生している場所だけで見て点でとらえてしまうと危険だなと思います。
日本でみれば、住家全壊10棟以上が生じた地震だけでも、この100年で20件あります…じゅうぶんに頻繁だと思います。小さな地震であれば毎日のように発生しています。
・1923:関東大震災
・1933:昭和三陸地震
・1944:昭和東南海地震
・1945:三河地震
・1946:昭和南海地震
・1948:福井地震
・1952:十勝沖地震
・1995:阪神淡路大震災
・2004:新潟中越地震
・2011:東日本大震災
・2016:熊本地震
・2016:鳥取県中部地震
・2018:胆振地方中東部地震
・2018:大阪北部地震
・2018:島根県西部地震
・2021:福島県沖地震
・2022:福島県沖地震
・2023:能登半島沖地震
・2024:能登半島地震
・2024:豊後水道地震
※気象庁WEBサイトより/アクセス日:2024.11.28
日本でみれば、ここ数年は毎年のように発生しています。
「そんなに地震だなんだって怖がらせたいの?」と言われたことがあるのですが、怖がらせたいのではなく「だからこそ、毎日を大切に、一瞬、一瞬を大切に、何よりも自分を大切に」の思いが一番強いです。備えのことも、どれもこれも究極をいえば全て余計なお世話ですよね、、、
過去の災害の記録や記憶、知恵や工夫を知り、少しでも備えと心構えがあればダメージは少なくできるのにな、本当にある日とつぜん、わずか数十秒で一変してしまうので・・・
余計なお世話といわれる方には仕方がありません。そうではなく「備えるぜ!」「みんなにも教えるぜ!」と思ってくださる方に届けばうれしいです!✨🤗
今夜は絶対におでんを食べようと思っているベルでした!