津波・高潮

|熊本県|日本の歴史上最大の火山災害

Bell

アーユーボーワン!すべての命に。あけましておめでとうございます!
今年初のブログとなりました、ベルです。今年もよろしくお願いいたします。

2024年最後の自然災害伝承碑めぐり先

今回のブログは2024年最後の自然災害伝承碑めぐり先となりました、熊本県天草郡苓北町(れいほく)の「両肥溺死」です。地図の赤丸印の場所へ会いに行きました。

昨夏に大渋滞で断念した場所

じつは昨夏に訪問を試みたのですが、あまりの大渋滞に断念して上天草市で引き返した苦い経験があるところです。それもそのはず、天草は海がとても綺麗で海のレジャーや観光でも大人気の場所なのです。朝早く出れば大丈夫じゃないか…が甘かったです。

さて、年末の12月30日に向かった天草は…スイスイスーの渋滞なしで快適に向かうことができました。阿蘇から約146Km・約3時間の運転でしたが、島原半島がきれいに見える海の景色はドライブには最高のスパイスでした!

その数、40基以上におよぶ自然災害伝承碑がある大災害

さきほどの地図で十字マークがある島原湾を囲むように長崎県島原半島沿岸と対岸側となる熊本県沿岸部には、自然災害伝承碑が集中して40基以上あります。

これらはすべて同じ災害による被害をうけています。その災害名は「眉山崩壊(まゆやまほうかい)」です。この災害は「島原大変(しまばらたいへん)」「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」とも呼ばれ、日本史上最大の火山災害として知られています。

両肥溺死

概要
碑名両肥溺死
災害名眉山崩壊
(1792年5月21日)
災害種別津波
建立年1801
所在地熊本県天草郡苓北町都呂々字古里
伝承内容寛政4年(1792)島原温仙岳が大爆発し、その直後の被害と、爆発によって起こった津波によって、肥前、肥後両国に多大の残害があった。これによる死者は多数にのぼり、天草の溺死者は400名、有明海沿岸の村々に漂着した。各村々はこの漂着肢体をねんごろに葬り、後に碑を建てて供養した。島原半島史には当時の被害のことを次のように記している。流民家370余戸、屍牛馬109匹、水田、富悪での高潮2尺程、など。
制限事項

碑名にある「両肥」は旧国名の「肥前(ひぜん)」:現在の佐賀県と、壱岐・対馬を除く長崎県と「肥後(ひご)」:現在の熊本県にあたります。「両肥」はその両方ともを指しています。

島原大変はどんな災害だったのか

この「両肥溺死」はじめ多くの自然災害伝承碑、そして、古文書なども多く残されている「島原大変」とはどんな災害だったのか。そして、当時の人々はどのように災害に向き合ったのか。

それらは、自然災害伝承碑だけでなく多くの文献から知ることができます。なかでも参考資料としておすすめしたいのは「島原大変(国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所」の資料です。PDFファイルで公開されているのでインターネットで利用できます。

たくさんの文献を参考にまとめられていて、おおまかな時系列で紹介されていています。どうして山体崩壊に至ったのかのメカニズムもわかりやすく非常に理解が深まります。ぜひ、みなさんも読んでみてください。

島原大変:国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所 PDFファイルはこちら

過去のブログより|島原大変ざっくりと

2022年12月15日の自然災害伝承碑めぐりブログでも「島原大変」を伝える自然災害伝承碑を紹介しています。その記事から災害発生までの流れを引用しますと、

災害発生に至るまでには約半年ほどにわたる火山に紐づく経過があったことがわかりました。

地震 → 火山噴火 → 地震 → 山津波 → 津波

■1791年11月 頃 :雲仙岳西側で有感地震が多発
■1792年2月10日:普賢岳が噴火、溶岩流や火山ガスの噴出
■1792年4月 1日:地震群発、普賢岳が噴火、噴石が雨のように降り注ぎ         
眉岳・天狗岳に落石し地割れが各所に発生
■1792年4月21日:島原近辺での地震活動が活発に
■1792年5月21日:午後8時頃、島原は震度6の揺れで眉山が崩落        
         3億4000万立方メートルもの土砂が有明海へ、津波発生

※参考:1億3000万立方メートルが東京ドーム約80個分に該当
ウィキペディア「島原大変肥後迷惑」の項目です。
 リンク先のぺージには各項目についての詳細、出典元の一覧もあります。(ウィキペディアが開きます)

この一連の流れには続きがあり、5月21日の眉山崩落の後に再び普賢岳が噴火し、地震が発生する度に眉山が二次崩壊しています。

大まかな災害発生の流れは以上のようなものです。詳細でわかりやすいものは先述の資料がおすすめです。

資料よりピックアップ!〜今じゃ考えられないよ〜

紹介しました「島原大変」(国土交通省 九州地方整備局 雲仙復興事務所)には興味深い記事がいくつかあるので紹介します。

初めて見る噴煙い興味津々
山頂から上がる噴煙を見ようとして大勢の人が山に登り、さらに見物客相手の物売りなども入ったため、火の不始末による野火がありました。そのため、見物人や出店店主に対し火の不始末注意のお触れがでていることから、多くの人が山に入っていたことがわかります。

慣れて余裕の溶岩見物
流れる溶岩の様子を人々は見晴らしの良いろぎ山で見物していました。粘性の高い溶岩は岩塊となって崩落し、激突して花火をちらし、壮大な光景を見せながらゆっくりと流れました。見物人相手の茶屋や酒屋が設けられると、三味線まで繰り出し、昼夜を分たぬ賑わいとなりました。

避難はしなかったのか?

藩主の子供達と武士の家族たちは避難した
城下を襲った激しい地震のため、藩主の子供達や武士の家族らは朔日の日暮れに島原を出発し、夜通し歩いて守山村まで避難しました。それを伝え聞いた町人たちは驚き急いで避難準備を始めました。

島原街道は混雑
とりあえず避難した者たちが再び城下に戻ってくる列と、北目方面に避難する者たちの列で島原街道は混雑しました。夜通しで避難する者たちに対し、街道沿いの神代・西郷では人馬と提灯を用意したり、避難民を受け入れる準備がされました。

避難先では燃料や食料が不足藩が物資を配布
武士の家族や町人たちの避難先である北目道の村々では、燃料である薪や食料が不足しました。そのため藩では、三月六日(4月26日)、藩囲い米を放出、米の配布、薪の配布(薪は天草から救援物資として運ぶ)を行うことに決めました。

城下町からは人がいなくなった
三月朔地震の後、城下を訪れた熊本からの見聞者は避難が済んだ城下町の様子を「商店は休業し漁師は舟で逃げる準備で魚も売っていない」と記録に残しています。

すごい!なんと、警戒避難指令書があった 

緊急時の対応や避難字の心得などを詳細に書きつけた「奥山吹出(普賢岳噴火)に付御手内調の事」(警戒避難指令書)の存在がありました。これは殿様御一家の安全確保を主な目的として作成されたもので、一般町民を避難させる趣旨ではなかったそうですが、内容の想定条件などは現在では会社や地域、自治会などでの避難条件を想定するに参考になるのではと思います。

ぜひ、資料で確認していただきたく詳細は書きません(生意気ですみません🙇‍♀️)。先述で紹介しています資料の8ページにあります。資料のリンクはこちら

1万5千名もの犠牲者が出た教訓をいかす

この災害で得られる教訓はたくさんあると思いますが、現在の私たちが非常に大切に心に刻まねばならないものとして、知識を持つこと、避難解除は慎重にすること、常に備えること、です。中でも一番は知識を持つことが大事だなと私は思いました。

当時、限られた人たち(藩で働く人や武士、学識者など)以外は、知識が乏しく、情報も限られたものしか得られず、致し方なく、情報を持つ人の行動を頼りに避難や避難解除をしています。

しかし、いま現在は、地震、火山、気象、については、小学校から学ぶことができますし、学校でなくとも、災害伝承施設や全国に沢山ある自然科学系の博物館などでも学ぶことが可能です。

地形や地質、気象の知識は、専門家レベルでなくとも、災害時に流れてくる情報によりどういうことが起こるのか、どれくらい危険なのか、自分はどうすればよいのか、は考えれる内容を十分に学ぶことができます。

インターネットやテレビ、SNSでどれだけ便利な形態で情報が提供されようとも、自分で学び知識として獲得、身につけていなければ情報を解釈することができず、先人がそうだったように誰かの行動をみて頼るしかできません。

あの人が逃げるなら私も逃げよう、は、自分の命を人に委ねることと同じです。

あの人が大丈夫と言っているから私も避難しない、は、言い方を変えれば、
あの人が助からないときは、私も助からない、です。

眉山崩壊のときから色んなことが進化、発展しています。しかし、残念なことに多くの人が自分で考えて行動できる知識を持ち合わせていないように感じます。

重要なのは、心構えです。

知識を身につけるだけでも被害を小さくすることに役立ちますが、それだけでは足りません。最も重要なのは心構えです。心構えは、災害に備えるための心の準備と覚悟のようなものです。

心がけとは違います。心構えです。

心構えは、目的が明確なものです。
災害への心構えが重要です。

なんだか気合いが入ってきてしまいました。心構えとして、目的を明確にして災害に向き合うと、それに向かって知識を身につけ、行動をしていくと、楽しめるようになるという変化が出てくると思います。最初は否応なく、仕方なしに始めた防災活動にハマる人は楽しんでいる方が多い印象です。(目的の持ち方にはコツがあるかなと思います、またの機会に⭐︎)

ベルもそのひとりかもしれません。
まだまだ修行が足りないので、これからも勉強を続けて発信していきます。
今後ともどうぞおつきあいください⭐︎

おまけ

今回訪問した熊本県天草郡苓北町周辺には魅力的な場所、食がたくさんありました。特におすすめは崎津教会周辺です。海がきれいすぎました。そして、食事も美味しいです!またゆっくりと周辺探訪をしに行きたいと思っています。

ABOUT ME
ベル
ベル
災害伝承ラボのX係
災害時に役立つバンダナと帽子がわりのパトライトがお気に入り。 災害伝承のこと、自然災害伝承碑を巡る旅と防災の情報をXで発信係です。
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